越前屋俵太さんと初めてお会いしたのは、京都の観光学関連の教育機関が協力して開催したイベントであったと記憶している。もちろん以前から「テレビに出ている面白い人」という程度の、非常に雑駁な認識程度は私も持ち合わせてはいた。しかし初めて言葉を交わした時に、「テレビを辞めて山に5年間籠っていた時期がある」という話を聞き驚いた私は、哲学研究室出身者の自然な反応として、「ソローの『森の生活』」みたいですね」という言葉を口走ったのであった。私自身の「越前屋俵太」なる存在への認識が一変した、印象深い出会いだったと思う。
19世紀アメリカの代表的作家・哲学者ソローは、「人生にとって本質的な事柄」のみを見つめるために森に入り、数年にわたり自給自足の生活を送ったことで有名である。他方、俵太さんが「山に入った」理由の正確なところを私が理解できているとは思わないし、当初は私自身、俵太さんとソローとのこの共通点について、さほど深い意味を見出してはいなかった。しかしその後、様々な場で俵太さんの活動を目にし、時に共同で講義や事業を行うにつれ、職業的哲学者ではないとしても、「越前屋俵太なる存在は哲学的である」という命題は、私自身にとって確信に近いものとなってきた。
「哲学」とは多様なあり方を持つ知的営みであり、歴史上の偉大な哲学者達は、各自が独自の「哲学」の定義を提示し、理論を構築し実践を行ってきた。よって、「普遍的で唯一の哲学」なるものが、この世に存在するわけではない。しかし少なくとも、越前屋俵太がその人生や世界に臨む態度や行動は、私自身が現在考える「哲学的な実存」のあり方の4つの特徴を、まさに体現していると思う。
1つ目の特徴はその「領域横断性」である。哲学は他の諸学と異なり、宇宙を構成する特定の個別領域を専らの対象とする営みではない。越前屋俵太は同様に、何らかの領域に完全に所属し入り込んでしまうことを執拗に回避し、メディア、大学、行政、ビジネスなど、様々な領域を縦横に横断しつつ絶えざる「交渉」を続け、自らがその瞬間に「面白い」と思うものを実現しようと試みる。その姿は、「哲学は力を持たず、様々な力と交渉し続ける」と述べ、「<間>に線を描き続けること」の重要性を説いた20世紀フランスの哲学者ドゥルーズを想起させるものである。
2つ目の特徴はその「批判性」である。越前屋俵太は何らかの事象に出会った際に、常にそのものの価値や意味、本質や存在理由を問う姿勢を持つ。これは時に、「既存の価値」を、或いは「既存の価値を無批判に受容し思考停止に陥っている状況や人々」を批判し、揺さぶりをかける実践ともなる。その営みは、膠着した「内部」に「開かれ」をもたらす「外部」からの力として作用することとなる。この越前屋俵太の姿は、「愚かさを痛打することが哲学者の役割である」と言い、全ての価値転換の哲学を主張した、ニーチェの姿勢に通ずるものがある。
3つ目の特徴はその「創造性」、或いは「創造への希求」である。越前屋俵太は常に「新しいもの」「面白いもの」「誰も見たことや聞いたことが無いもの」を追い求めている。その情熱や執念は私から見ると、「尋常ではない」域に到達している。「今あるもの」を批判する姿勢は、同時に己に「では自分にいかなる新しいものが創れるのか」という問いを突き付けることになる、とでも言うべきであろうか。ドゥルーズは「不可能性に頭を打ち付けない限り、新たなものは創造できない」と言う。私には越前屋俵太は、何かを創造する為に、「常に頭を壁に打ち付けている人間」であるようにも見える。
4つ目はその「自己反省性」である。「自問自党」を立ち上げたように、越前屋俵太は常に「自問自答」を繰り返している。常に、自分自身は何者か、自分は何を知っているのか、何を知らないのか、或いは自分は何を為すべきなのか、何ができるのか・・と問い続ける姿勢。合わせて人々にも「自問自答」の重要性を呼びかける姿勢。良く知られている通り、ソクラテスは「無知の知」と言い、デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言った。越前屋俵太の「自問自答」は、「自己反省」や「内省」の学とも歴史的に捉えられてきた、哲学の重要な特徴の一つに深く通じているものである。
以上の4つの特徴によって、私から見ると越前屋俵太は十分に「哲学的」である。その上で特に書き添えておきたいのは、越前屋俵太には「若者への愛」という、教育者として不可欠な美質が伴うという事実である。これは学生達と向き合う俵太さんを見て、私自身が驚きと共に感じ続けていることである。常に正面から若者に向き合い、対話し、勇気づけ、その可能性を引き出そうとする。その姿勢はソクラテス的であるとも言えよう。
更にこれらの営みには常に、既成の価値や自己自身・他者・社会の現状を上空から捉え批判し、それによって自由や解放をも人々に与えるものとしての「笑い」という、高度に人間的な現象も伴っている。「哲学者は良く笑う者である」と、私自身は信じている。
まとめよう。越前屋俵太とは、ソクラテス的であり、デカルト的であり、ニーチェ的であり、ドゥルーズ的である、そのような特徴を持つ何者かである。私達はそのような人間のことを、(ニーチェの書名をパロディ化して言えば)「哲学的、あまりに哲学的」な存在であると、言って良いはずである。
原 一樹(はら かずき)
京都外国語大学国際貢献学部グローバル観光学科教授。立教大学観光学部兼任講師、立命館大学文学部授業担当講師、立命館大学大学院経営管理研究科非常勤講師。日本観光研究学会理事、観光学術学会理事、NPO法人観光力推進ネットワーク・関西副理事長。東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻・哲学専門分野博士課程単位取得満期退学。
20世紀フランスのジル・ドゥルーズ哲学の研究を出発点とし、旅や観光に関する理論研究、国内外の観光現象に関する調査、大学生や市民向けの観光教育に携わる。近年は観光現象における「真・善・美」の問題を多角的・原理的に考察する「観光哲学」の理論体系の構築を進めている。研究業績、所属機関は以下を参照。
原 一樹 (Kazuki Hara) – マイポータル – researchmap
グローバル観光学科 | 国際貢献学部 | 学部学科・大学院 | 京都外国語大学・京都外国語短期大学
